第三十九回 モミ
2025年1月12日
高森周辺、そして泉パークタウンは、かつて七北田村の中心部から北西に広がる七北田丘陵と呼ばれる小高い丘が広がっていた地域で、高森辺りには立田山と呼ばれていた小さな山があって、その中に高森と呼ばれていた地域があり「高森」の名がついたとのこと。
その状況が示すように団地造成後も、立田山とその周辺の自然豊かな堤と里山が、堤と公園として幾箇所も残されました。その中から、高森市民センターの南と北に位置する「修景公園」と「高森東公園」の豊かな自然の様子をご紹介します。
高森東公園・修景公園の四季 第三十九回 モミ
日本特産の針葉樹、秋田が北限のクリスマスツリー
英名:Japanese fir、Momi fir
モミは、日本特産の常緑針葉樹高木で、山地の乾燥した尾根などに生えます。暖地を好み、本州では秋田が北限で、四国、九州に分布し、日本海側の分布は少ないとのこと。枝が斜上するため円錐状の樹形になり、幹は直立して、高さ35~40m、直径1.5~1.8mにもなります。
モミは、生長は速く大木になります。神社の境内や社叢などに存在感たっぷりに生育していることが多いですよね。それは、神様がおりてくる際に目印となるような樹木が好まれることからきています。このような役割を担った樹木を「当て木」(あてぎ)といいます。神社に生育しているものには、当て木として植栽されたり、伐採されずに積極的に残されたりしたものも多いとのことです。
モミの木の名前の由来は、上記の理由に加え、大木で神聖な木として民間信仰の対象にもなっていたことから、古名の「臣木(オミキ/オミノキ)」が変化してモミの木になったといわれます。
もみの葉は、線形で互生し、長さ2~3cm、幅2~3.5mmと、日本に自生するモミ属では最も葉が大きくて硬くなります。若木の葉、或いは陽の当たる葉「陽葉(ようよう)」は先が深く2裂して鋭く尖ります(写真上左)。老木の葉、或いは陽の当らない葉「陰葉(いんよう)」の先は凹形にへこみます(写真上右)。枝からの葉の付き方も、樹の上部の枝や、光が十分当たる枝では螺旋状に付きます(写真下左)。若木やあまり日の当たらない枝では2列に並んで付きます(写真下右)。葉の裏面には淡い緑白色の縦線(写真上左2)があり、この部分に気孔があります。
6月に開花し、雄花は横あるいは下向きに円柱形で黄色(写真左)。雌花は長卵状長楕円形で、前年の枝の葉腋に1個ずつ上向きにつきます。2~3年に一度、開花結実することからあまりなじみがないというのが本当ではないでしょうか。私も2回しか見たことがありません。
果期は10月、松ぼっくりよりは大きく長い球果は10 - 15センチメートル (cm) と大柄な円柱形で、はじめ緑色、10月頃成熟すると、モミの木の球果は緑灰褐色になります。球果は枝先のほうに上向きにつくことが多いです。さらに見た目にも特徴があります。球果のところどころに規則的に出ている針状のものは、種子のついた翼果を抱く枕のようなもので苞鱗といい、その先が観えている様となります。苞鱗は、翼のついた種子の成長を支え、種子が飛び立つときのステージにもなります。秋遅く種子が熟すと、マツぼっくりならぬモミぼっくりの苞鱗は乾燥とともに開きはじめ、翼のついた種子を風を受けてステージより発射させます。
そんな特徴のあるモミの球果…モミのぼっくりは、あまり見た記憶がありません。調べていて分かったのですが、松ぼっくり=松かさのように球果で落ちてくることはほとんどないとのこと。言われてみれば納得です。ほんの稀に一本の樹の下に一つ落ちているかくらいです。それも球果の軸だけが残った姿です。そんなモミの樹の果実=球果、3年に1度くらいにしか開花結実しないといいうから、目にしないのも納得です。
12月になると、花屋さんのみならずホームセンターやスーパーなどの多くの店頭でよくモミの木を見かけますよね。クリスマスにモミの木なのでしょう。調べてみました。諸説ありましたが、そのひとつを紹介します。8世紀のドイツを起源とするというものです。「モミの木がまっすぐ天を指し、すくすくと伸びる姿は、キリスト教の天にいる父なる神につながるもので、礼拝の対象として最上のものとの評価がされていました。この木を家に入れて変わらぬ常緑の様と、変わらぬ愛とを重ね、天に伸びる喜びをともに賛美しよう」という宣教師の勧めがクリスマスツリーの始まりだとのこと。ドイツにはモミの木の別種や似たような樹木が多く生育しており、人々にとって身近な木であることから有名なドイツ民謡の『モミの木』が生まれており、親しまれていたようです。
なお、クリスマスツリーに使われた樹はモミの木だけでなく、「ドイツトウヒ」「ウラジロモミ」など様々な植物が使われています。
日本でも、皆さんが知っているあの奇祭でモミの樹が使われていますよ。日本三大奇祭のひとつ、さらに、日本で最も古い祭りの形式を伝承する長野県・諏訪大社の「御柱祭」では、各神殿の四隅に立てるすべての柱にモミの木を使い、神域であることを示しているとのことです。
最後に・・・樅の木は残った
樅(モミ)を取り上げたなら、仙台藩の伊達騒動、「樅の木は残った」に触れない訳にはいかないでしょうね。『樅ノ木は残った』は、1970年1月4日 - 12月27日まで放送されたNHK大河ドラマ第8作目です。
江戸時代前期の4代将軍・徳川家綱の治世に起きた伊達騒動を題材にした、山本周五郎さんの小説『樅ノ木は残った』を原作に、脚本家:茂木草介さん、演出家:吉田直哉さんのコンビが挑んだドラマで、戦争の無い時代にも争い引き寄せられる人間の悲しい性を描いたとのことです。
史実によると、仙台藩第三代藩主伊達綱宗の不行跡(後にふれます)がもとで幕府より逼塞(ひっそく)が命じられた。逼塞とは、現代では世間と距離を置いてひっそりと他人との交流を避けて過ごすさまを言いますが、江戸時代では、武士または僧侶に科せられた刑罰(自由刑)を指します。門を閉ざし昼間の出入りを許さないが、夜間は潜り門からの出入りが黙認された。閉門より軽く50日間と30日間の2種類があったものの、幕府は、仙台藩にはより厳しい「隠居」の沙汰があったのです。
当時二歳であった亀千代が四代藩主綱村に。ですが、幼い事を理由とし、伊達兵部と田村右京の二人が後見役を命じられ、大伯父・宗勝や、奉行・奥山常辰らが実権を掌握してしまいます。
その後、後見役の一人伊達兵部が藩政を牛耳り、藩内を動揺に陥れ入れました。
寛文七年(1667年)、涌谷と登米の間で二郷谷地を巡る谷地争いとなり訴訟へと発展していきます。伊達安芸宗重は仙台藩に訴えますが埒が明かず(らちがあかず)、兵部は幕府に相談すると決断します。その機会を見逃さず、宗重公は今まで集めた兵部側の不正の数々を幕府に訴え出ました。
兵部の手先だった仙台藩奉行(家老)原田甲斐を含む悪党一派に立ち向かったのが伊達安芸宗重です。
寛文11年(1671年)に詮議が始まります。
一度目詮議(せんぎ);江戸表の老中・板倉重矩邸にて、
(宗勝派)伊達宗重、原田宗輔、
(反宗勝派)柴田朝意 が審問を受ける事となります。
一度目の詮議は、藩主の伊達綱村は幼少であることから何事もないとされ処分がないとされていす。
二度目の詮議(せんぎ)は、板倉重矩邸から大老・酒井忠清邸に場を移して行われました。ここで、伊達藩の力を削ごうとする思惑が動き始めます。
ところが柴田が審問を受けている最中、1回目の詮議で劣勢に陥った原田甲斐は、控え室で宗重を斬殺してしまいます。詮議(せんぎ)の途中で原田甲斐が斬りかかり宗重公は凶刃に斃(たお)れます。
そこに戻ってきた柴田朝意と斬り合いとなり、原田甲斐・柴田朝意互いに負傷。
両者ともに混乱した酒井家家臣らに討ち取られるという、流血沙汰となってしまいます。
ここまでが史実として、以後は「樅の木は残った」に描かれたフィクションとして描かれています。
密約が明らかになっています。・・・伊達家の人々の殺害を命じたのは、密約の書状が世に出ることを恐れた大老酒井雅楽頭がいたのです。
その密約とは・・・
密約と背景…江戸幕府内に取りざたされていた伊達家62万石の勢力を削ぐべく、この機に乗じて領地の分割案を推し進めていた大老酒井雅楽頭の思惑が背景にあります。
元々、伊達綱宗の不行跡…吉原通いは1週間程度で、さほど熱心に通っていたわけではない、という説もあります。幕府としては、徳川家康の時代から伊達62万石を、どうにかして分割して力を削ぐという狙いは引き継がれていたようで、二度目の詮議(せんぎ)はその思惑から、大老酒井雅楽頭が動いたのです。
その事を知った伊達安芸宗重・原田甲斐は、それぞれに今回の騒動を機会に分割案を断行されることを阻止することで仙台藩を守ろうとの思いがありました。
宗重公の身命を賭けた訴えは幕府に通じて、綱村は幼少の為お構いなしとされ、仙台藩は安泰でした。
一方で、この騒動のおさまりをつけます。この騒動の舞台となった大老酒井雅楽頭の権勢は弱まります。
この詮議の争点として、大老の邸宅で刃傷に及んだ原田甲斐家は断絶、一族の男子は皆殺しとなります。
もう一方の藩の長老で、伊達宗勝の一ノ関藩は改易となっています。
これら史実をつなぎ合わせて、逆臣とされていた原田甲斐を、伊達家を守るために事を起こした忠臣として、脚色・描いたのが『樅ノ木は残った』でした。
(伊達騒動は、どちらに立つかで、書きようが変わります。中立の立場で書いています。ご意見のおありの方もあるかもしれませんが、筆者なりに調べてみた結果です)
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ここまでが本文です。